Quantcast
Channel: リバーリバイバル研究所
Viewing all 338 articles
Browse latest View live

40th イワナの産卵床を再生する。高原川漁協

$
0
0

漁協は魚を放流して、遊漁料をとるだけではないんだよ! 高原川漁協、砂防堰堤で産卵場に移動できないイワナの人工産卵場を作る取り組みを紹介します。

 

やわらかな木漏れ日の中でなにがはじまるのか。ここは、奥飛騨温泉郷、栃尾温泉を流れる高原川の支流蒲田川。河川敷に、木立に囲まれた小さな流れがある。この流れは、イワナの産卵を目的とした人工の河川で、上流の砂防堰堤から水を引いて造られている。

 10月の終わり頃、イワナは沢を登る。大きな流れから支流へ、そしてそのさらに細まった沢筋をどこまでも登って、背中がでるほどの細い流れの中で産卵する。受精した卵は雪の下で冬を過ごし、礫の間で春を待ち、稚魚となって沢をくだる。上流の細い流れのなか春を待つことで、雪解けの大水から小さなイワナたちの命は守られる。

日本のほどんどの川の上流域には砂防堰堤がある。土石流から下流の集落などを守るためだが、堰堤があることでイワナは上流へ移動ができない。イワナの数が減っている原因のひとつでもある、

失われたイワナの産卵する沢をよみがえらせよう。その目的で、高原川漁業協同組合が堰堤の下流に造ったのがイワナ産卵用人工河川だ。漁協では二〇〇五年から組合員による産卵場造りをはじめ、二〇〇八年から一般の参加者を募集している。

イワナの産卵場つくりに、組合員以外の参加を呼びかけたのは、漁協はただ釣り人から遊漁料をとりたてるだけの存在ではないことを知ってほしいという思いからだ。産卵場を造るという行為を通じて、「釣り魚としてだけでない『イワナの生き様』を感じてもらえたら」と高原川漁協の徳田幸憲さんは語る。

 今年の「作業」は二二日。砂利を運び入れる。産卵床を均すなどの体験をして、昼食は漁協が提供する高原アユの鮎飯と塩焼き、豚汁をみんなで食べる。

参加費は無料。定員三〇名までの参加者を募集している。申し込みは電話ファクス0578―82―2115 またはフェースブック「高原川漁業協同組合」。

(魚類生態写真家)


第27回 アユの産卵をみる会のご案内。

$
0
0

「第27回 アユの産卵を見る会」のおしらせ
         
日時: 2016年11月5日(土曜日)
 第1部 アユの産卵観察会:午後4時より午後6時まで

 第2部 アユを送るたき火会 午後6時30分 ~ 朝まで
場所: 岐阜市 元浜町地先 
長良橋下流400m左岸(金華山側)

目印は「あゆをみる会」の青い旗です。
会場へは岐阜バス 長良橋下車(JR岐阜駅から15分)鵜飼乗船場から堤防沿いに下流に向かい、堤防が切れた部分からを河原方向へ向かって下さい。 
車でのご来場も可能です。 川原近くの空いた場所に駐車して下さい。
会場への通路は通常は鍵が掛かっていますが、当日は午後3時から開放します。
参加費:無料

 

 観察会は産卵場から水中カメラのLIVE映像を中継して川岸のスクリーン投影します。同時に、撮影地点から新村安雄(フォトエコロジスト)がアユの生態、産卵等について解説をします。
アユの産卵は日没直前が見頃です。午後4時20分前後が観察をしやすい時間帯です。
当日は大雨で川が濁らない限りは小雨でも行います。天候が悪い場合には電話でご確認下さい

連絡先: 当日のご連絡は   090-2686-0869    新村まで 

 

〇定点観測
「アユの産卵を見る会」は長良川河口堰建設前より長良川の変化を見守る「定点観測」を目的として26年前に開始しました。長良川のアユの生態が長良川河口堰建設によってどのように変化するのか、当初は想定できない部分もありましたが、2000年に水資源水資源開発公団・建設省が公開した資料から「長良川では大きなアユがいなくなる=産卵期初めの仔アユは海に行けない?」という傾向が示唆され、その現象をモニタリングする意味で産卵盛期に観察会を行っています。今後も長良川のアユの変化について「定点観測」を継続していきたいと考えております。

 

 

 

 

   

42th 川を耕す   アユの産卵をみる会 の準備

$
0
0

アユの産卵をみる会の準備でおこなっている「耕耘」 川を耕すことについて。
今年は11月2日午前10時より「公開 リバーリバイバル」を行います。 参加自由、ただし、胴長をご用意下さい。
川原でアユの産卵場を整備します。会場は、「アユの産卵をみる会」会場です。

 

川を耕す

アユという名は「落ちる」という意味の古語「あゆる」からという説がある。

秋は、雨ともに訪れる。雨が降り、水温が下がる川面を、ぽつりぽつり、アユの群れが下っていく。行き先はアユの産卵する下流域だ。と言っても、急いでその場所に向かうというわけでも無い。夏の名残を惜しむか、瀬頭で留まり、橋の影に驚いて群れは集まり佇む、そして、一雨毎に川を下ってゆく。留まりながら下る姿を見て、「落ちる」と先人は見たのだろうか。

 アユの産卵場は下流域にある。川が平野をつくるあたり、人々が多く住む街の中でアユは産卵をする。長良川の場合、アユの産卵場所は岐阜市内にある。

27年前、岐阜県庁近くでアユの産卵観察会を始めた。東海豪雨以後その場所は近づけなくなり、18年前、金華山のほとり、長良橋の下流に会場を移した。

アユが産卵するのは、親指の先くらいの小石なら流れてしまうくらいの瀬。河床の小石の間には隙間があって、「浮き石」と呼ばれる石の間を水が通るような場所だ。そこでは、オスのアユが先に場を決め、メスを待つ。オスは気に入らないとその瀬を素通りして下流に行ってしまうから、アユの産卵観察会を行うには、事前にオスが気に入る場所を探しておくことが必要だ。

 会場は鵜飼乗船場のすぐ下手という長良川を代表する場所であったが、ひとつ問題があった。アユが産卵する瀬が斜めに広く、直前まで瀬のどこで産卵が始まるのかがわからない。

十年前からアユが産卵しやすい場所を整え始めた。広がった瀬の中に、幅1mほどの流れを作る。大きな石をとり除き、ジョレンを使って河床をたがやす。掘ることで流れの速い溝を作ると流れが集まり、河床の細かい土砂が洗われて、アユが産卵しやすい場所が出来あがる。

 まもなく、アユの産卵は盛りを迎える。観察会は11月5日午後4時から、参加無料。詳細はブログ「リバーリバイバル研究所」で検索。

(魚類生態写真家)

 

アユの産卵観察会 25年

$
0
0

アユの産卵観察会 25年

第42回 津波の記憶  故郷の祭りの残る先祖の教え 

$
0
0

 必ず来るという南海トラフ地震。このコラムは故郷の母に向けて書いたものです。

「津波の記憶」故郷の祭りの残る先祖の教え!

 東北最大の流域を誇る北上川には河口が二つある。ひとつは旧北上川とよばれ、宮城県石巻市の市街地を流れて石巻湾に注ぐ。もう一つは牡鹿半島をへだてた北側の追波湾に注ぐ新北上川だ。
 東日本大震災による津波で、児童と教職員計八十四人が犠牲となった同市立大川小学校の悲劇。津波にのまれながら助かった四人の児童の一人Tくんの祖父、只野弘さんは新北上川の河口域でシジミ漁をされていた。二〇一一年に先立つ数年間、私は只野さんの漁場でシジミなどの生物調査をしていた。多い年には、年間で二カ月ほども大川小学校に近い宿に滞在していたが、震災後、現地を訪ねると、河口域の地形は元の形をとどめず、亡くなった只野さんのお住まい一帯は跡形もなく流出していた。
 私は浜名湖北岸の町で生まれ育った。氏子として山車をひいていた細江神社に祭られているのが「地震の神様」であると知ったのは、成人してよその地に暮らすようになってからだ。
 細江神社のご神体は、元は浜名湖の湖口(静岡県湖西市)に祭られていた。一四九八(明応七)年の大地震・大津波で流出、湖内の村櫛半島に漂着して仮宮で祭られる。一五〇九(永正六)年、再度の津波で流されて、細江町内(浜松市)の赤池という場所に流れ着く。それを現在の場所に祭ったのが、細江神社だと社伝は伝える。
 淡水湖だった浜名湖が、海とつながって汽水湖となったという大災害。明応大地震で津波が来襲したという場所が赤池だ。そして、五百年前の大災害を今に伝えているのが赤池で執り行われている神事なのだろう。
 現在の科学では地震は予見できない。しかし、災害の記憶を留め、安全な場所を後の世に伝えていくという試みを先祖たちは続けてきた。近い将来に必ず起こるという南海トラフ地震。この場所までは津波が来るのだという教えを、故郷の祭りの中に見たのだった。(魚類生態写真家)

43th マジックアワー アユの産卵する瞬間を「生」で見せたい。

$
0
0

アユの産卵する瞬間を「生」で見せたい。その思いから長良川で観察会を続けてきた。友人たちと思いと繋いでの26年間だった。その瞬間にささやかな、魔法をかけた。

マジックアワー

アユの産卵する瞬間を「生」で見せたい。そして26年間、観察会を続けてきた。

観察会を始めた最初の頃には、浅い水路を渡れば産卵する中州に近づけた。産卵する場所のそばにテレビと発電機をセットして、参加者は水中カメラでアユの産卵を観察した。

川の形は毎年変わる。浅かった水路も次の年には深くなった。そこで、岸にテレビをおき、中州からの水中カメラの映像をビデオケーブルで中継した。やがて数年たち、水路の幅と深さがまし、ケーブルでの中継は難しくなったが、監視カメラ用無線機を使って映像を送るようになった。

川原にスクリーンを設置して、私が撮影した映像を参加者は「生」で観る。行動の説明は、川岸に戻った私が録画した映像を再生しながら行う。この方法でアユの産卵観察会を行うようになったのが十年ほど前だが、これが本当に「生」の観察会といえるのかという悩みがあった。

録画ではなく、「生」でその瞬間の説明ができないか。その想いを形に出来たのは二年前、カメラマン徳田幸憲さんが飛騨市から手伝いに来てくれるようになってからだ。

日が傾きだす4時30分から説明を始める。映し出される映像を見ながら、水中の様子、そしてアユの産卵がどのように始まるのかアドリブで解説する。

「色の黒いのはオスのアユ。メスは銀色をしている」

前に詰めた子供らはすぐに色の違いを理解してメスの姿を追う。日はさらに傾き、オスの群れは数を増す。そして、下流からは銀色のメス。がしかし、産卵はなかなか始まらない。私はささやかな手品を使った。「4時47分に産卵します」産卵の時刻を予告したのだ。夕暮れにアユは産卵を始める。それは、山陰に太陽が隠れ、空が残照に輝く魔法の時間帯、マジックアワーの始まる時刻だった。

その時がきた。カメラはアユの産卵の瞬間を映し出し、人々から歓声があがった。(魚類生態写真家)

 

木村英造にささぐ

$
0
0
そろそろ始まる、木村英造さんを偲んでのシンポジウム。企画した高田さんから木村さん。淡水魚保護協会のことを話してくれという依頼があった。ひとつき以上も悩んだのだが、お断りした。  なんと断ろうかと思った。それも悩み悩んで、結局は 「木村さんのことは、もういい」と高田さんに返事をした。  それが、正直な気持ちだった。
 訃報を知り、コラム「川に生きる」に書いた。  いろいろなことが思い出されて、煮詰まってしまった。  このコラムを書いたのは、一時は一緒に行動した仲間としての惜別だった。それ以上でも、それ以下でも無いということで、 ボクとしては木村さんも淡水魚保護協会のことも、もう「おしまい」というつもりだった。
 コラムには書けなかったけれど、木村さんの名言がある。
「マスコミと若い女は、追えば逃げる」
 合掌

 以下のコラムを書くにあたって、資料一式を石川晃一さんにお借りしました。感謝申し上げます。




44回 生きている土左衛門 観察する力 上  アユの産卵をみる会

$
0
0

じっと水面に横たわって観察していると土左衛門に間違われることもある。というはなし。 観察する力 上。

 

 

春、海から遡上し、夏、長良川全域で育つ。秋、産卵して次の世代へ命を繋ぐ。

「長良川のアユの故郷は岐阜市だ。市中で産卵するアユをみてみないか」長良川河口堰問題で知り合った仲間たちにそう話した。27年前のことだ。当時の私は川崎市に住んでいたが、長良川のアユがいつ頃、どの辺りで産卵するのかという情報を、河口堰関連の報告書で知っていた。一番良さそうな場所は、関東と呼ばれる禁漁区で、国道21号線の穂積大橋の下流、岐阜県庁の近くだった。9月下旬から10月中旬くらいと当たりをつけ、川岸にテントを張った。

最初の夜のことは今でも覚えている。すっかり日の落ちた川に、夜空の明かりを頼りに入った。水中マスクを被り、潜る。暗闇のなか、顔や手のひらにあたるものがあった。水中ライトを灯した。目の前はライトに驚いて一斉に逃げまどうアユでいっぱいだった。

これはすごい、仲間たちも感動して、観察会を始めようということになったが、問題があった。群れるアユの姿を、みることはできた。しかし、明かりをつけるとアユは逃げてしまうのだ。産卵の瞬間を見せたい。赤外線カメラを水中に入れてみるなど、工夫するのだがうまくいかない。

暗くなる前に、産卵を観察できる時間帯はないか。明るい間に浅瀬に水中マスクをつけ、顔を横にして寝そべる。右の目は水中に、左側は陸上にだして、そのままじっと、アユを観察していたときだ。

堤防の上に人影が見えた。それが消え、しばらくするとサイレン。パトカーと消防車の赤色灯が堤防の上に止まった。川音が大きいので人の声はよく聞こえない。やがて、パトカーは去り、静かになった堤防に、また人影がひとり。こちらを見て、腕を振り回している。何だろう。

後日漁協から、私を土左衛門と思い、警察に通報した方から抗議があったと、おしかりの電話があった。

(魚類生態写真家)


45回 アユを変えた長良川河口堰  観察する力 (下)

$
0
0

長良川河口堰は長良川のアユの生活史を変えていた。遡上が遅れることによってアユが小型化したのだ。その原因は降下にあるのだが、それはまた次回。ボクの偏愛する長良川河口堰の映像をご覧下さい。

 

 アユを変えた長良川河口堰  観察する力 ( 下 )

アユが産卵するのは、あたりが暗くなってからだ。ところが産卵するアユが多い場合、明るいうちからでも産卵するアユがいる。太陽が沈み、暗くなるまでのわずかな時間、マジックアワーといわれる限られた時間帯にアユの産卵を水中カメラで観察する。それが私たちの始めた「アユの産卵をみる会」だった

観察会を始めて5年目の1995年7月。長良川河口堰のゲートが下ろされて本格運用が開始された。

河口堰が出来てアユはどうなったか。日が落ちてから暗くなるまでという、限られた条件で観察会を行っていたことから、川の変化がよくわかった。始めたころは10月の最初の土曜日に行っていた観察会だったが、ゲートが下ろされて、二年、三年と経つとその時期に産卵場所にアユが集まらなくなった。長良川にアユがいなくなったわけではない、アユが産卵する時期が三週間ほど遅くなったのだ。そして、産卵場を訪れるアユの大きさも小さくなっていた。

産卵期が遅くなる。産卵するアユが小型になる。その理由は建設省(当時)の「長良川河口堰モニタリング委員会」の公開資料にあった。委員会の調査では、河口堰の魚道で採補したアユを分析して、そのアユがいつ卵から孵ったかを調べた。調査は三年間行われたが、河口堰が閉められた二年後1997年には11月初旬にふ化したアユが多かったが、98年には11月中旬、そして99年には11月下旬にふ化したアユが多くなり、11月以前にふ化したアユはごくわずかになった。河口堰が閉まった五年後、アユの産卵とふ化は、三週間ほど遅くなっていた。

長良川のアユが小さくなったことも、アユのふ化する時期が遅くなったことが関係している。遅くふ化したアユは海に下る時期が遅く、成長も遅れる。そして、川への遡上も産卵も遅くなり、大きさも小さくなった。アユを変えたのは長良川河口堰だった。

(魚類生態写真家)

第46回 潮のポンプ  河口堰建設で失われた機能

$
0
0

 

潮のポンプ

 川の下流域には天然の「ポンプ」がある。一日に二回、大量の水を海に送り出している。このポンプの正体は、潮の満ち引きだ。潮が満ちるとき、海の水は川を遡る。潮が引くときに、留まっていた海水は、川の流れとともにいっきに海へと流れ下る。

 潮によって水位が上下し、流速が変化する「潮のポンプ」のあるところは、潮を感じる場所ということから「感潮域」と呼ばれている。長良川の場合、感潮域は新幹線長良川橋の上流、河口から三十八㌔付近まで。感潮域の上流部は淡水だが、下流には海水が混ざった、汽水域ができる。
アユの仔魚は、腹に栄養分を持って生まれる。その栄養だけで十日ほどは生きていけるのだが、五日目くらいから餌を食べないと飢えてしまう。餌となるのは小さなエビカニの仲間だ。淡水と海水が混ざった汽水域にいる。
 長良川でアユが産卵する場所は、感潮域より少し上流の瀬から、河口より六十二㌔付近までの約二十三㌔に及ぶ。【仔魚】は六㍉ほどと小さく、泳ぐ力は弱い。その小さなアユが、遠い下流の餌のある汽水域までたどりつけるのは潮のポンプのおかげだ。
 アユが卵からかえるのは夜だ。昼間は川底で休み、浮いて下るのも暗くなってからだ。【仔魚】は他の魚にとっては良い餌だから、昼間に下れば食べられてしまう。秋から冬、昼間よりも夜の潮が大きく引く。仔魚は、夜、「潮のポンプ」の流れに乗り、下ることができた。
 河口堰(ぜき)は潮止め堰とも呼ばれる。止めるのは潮の満ち引きであり、塩分だ。河口堰建設により潮のポンプはなくなり、汽水域も河口堰の下流へ十㌔あまり後退し、仔魚にとって、えさ場はさらに遠くなった。
 汽水域に達する日数は、建設前に四日未満、それが建設後には十二日以上も掛かるようになった。ふ化後五日から餌をとるという仔魚は、生きていけたのか。(魚類生態写真家)

第47回 潮のポンプ 下 どうして長良川のアユは小さくなったか!

$
0
0

河口堰ができてから、なぜ、長良川のアユが小型化して、産卵期が遅くなったのか、4回にわたって書いてきました。生まれてしばらくを海・汽水域で過ごすアユにとって、遡上するよりも降下する方が大変であるということですね。

潮のポンプ 下  どうして長良川のアユは小さくなったのか!

潮の満ち引きが作り出す「潮のポンプ」は、引き潮時に下流域の川の流れを速めて、ふ化したアユの仔魚が、下流に向かう移動を助けていた。

長良川に河口堰ができ、潮のポンプは無くなり、仔魚が汽水域にまで下る日数は倍以上となった。日数が増えると、餌のある汽水域まで到達できず、仔魚は死んでしまう。水温が高いと仔魚の活動は盛んで、腹に蓄えた栄養を早く使い切る。低い水温の時よりも、高水温時には生き残ることが難しかった。

河口堰建設以前、長良川ではアユの産卵は10月半ばに盛りを迎えた。最初に産卵するのは大型のアユ、水温が低くなる11月以降に、小ぶりのアユが産卵を始めた。水温の高い、早い時期に生まれた大型のアユの仔魚は死に、遅く生まれた小さなアユの仔魚は生き残る。それは、海域でのアユの生活期間を短くし、翌春、川に戻るアユの遡上時期の遅れ、アユの小型化、を起こすことを意味した。

その対策として、河口堰の右岸に併設されたのが人工河川だ。下流側はアユのふ化用水路で、上流で採卵し、受精させた卵はシュロの繊維に付けられている。二週間程度でふ化した仔魚は魚道を通って河口堰を下り、すぐに餌を摂ることができるようになった。

この人工河川が完成した時、私は長良川漁協から依頼され、どのくらいの仔魚が生きて海に下れるのかという調査をした。結果として10月中旬、水温の高い時期には、表面に水カビがつくなどして死んでしまう受精卵が多いことがわかった。

現在、長良川漁業対策協議会と長良川漁協は、水温の下がる11月から受精卵を人工河川に運び、多くの仔魚を海に送り出している。しかし、「潮のポンプ」があった頃のように、水温の高い時期に生まれ、早春川に戻り、最上流域まで遡上して大きく育つアユの群れを、長良川は取り戻してはいない。

 

(魚類生態写真家)

48th 観光資源としての川 オリンピック カヌー・スラローム会場は自然の川でやるべきだ!

$
0
0

 2020年の東京オリンピック。カヌーコースはベイエリアに新築することになった。スラロームにしても、人工水路でポンプアップでの競技となる。今更なのだけれど、ボクは自然の川で競技を行うべきだったと思っています。多摩川はどうか?という提案については、盟友?矢野さんから情報を頂きました。彼のことは紙面に書ききれなかったので、彼の来歴はまたの機会に!

観光資源としての川を世界に誇りたい!

二〇二〇年の東京五輪。一時、競技開催地の見直しの機運があった

。江東区の森競技場での開催が決定したボートとカヌー・スプリント競技について、小池百合子知事が宮城県の長沼ボート場に変更する案を提示した際には、江戸川区に建設されるカヌースラローム競技場にも見直し案はないかと期待した。
 埋め立て地の人工水路ではなく、自然の川で五輪競技ができないか。
 葛西臨海公園に隣接するカヌー・スラローム競技場の建設費は七十三億円。五輪全体の建設費からみれば小さい額だが、競技のために、人工水路に大量の水をくみ上げて循環させる。恒久施設として五輪後も使用されるが、ポンプを動かす電力料金、施設の維持管理など、将来にわたり少なからぬ費用が必要となる。
 私は日本の川は世界で一番だと思っている。温帯域で降水量が多く、一年を通して水が枯れることがない。澄んで暖かく、魚が棲み、泳いで安全な水が流れる川。その川の素晴らしさを世界に紹介するのに、五輪は絶好の機会だった。
 多摩川上流。小河内ダムがつくる奥多摩湖は日本最大級の水道専用貯水池だ。多摩川は下流に位置する白丸ダムで、発電のため取水されるが、さらにその下流で水量は回復する。現状の流量はカヌー競技を行うには心許ないが、白丸ダムは東京都交通局が発電用に造ったダム。五輪開催を機に放流量を増やすことはできなかったか。
 東京都の観光地として近年、世界的に知られた場所がある。高尾山だ。二〇〇七年にミシュランガイドが三つ星をつけ、外国人観光客が激増した。年間の登山者数は二百六十万人と世界一だ。都心から一時間の距離にある豊かな自然が、高尾山の魅力だが、多摩川も都心から一時間余り。公共交通の便もよい清流だ。
 都下多摩川での開催は、費用の削減に留まらず、東京五輪のレガシーとして、日本の川の素晴らしさを、世界に発信する絶好の機会であったと思うのだ。(魚類生態写真家)  

50th うなぎの寝床  長良川はうなぎの川でもあった。その独特の漁具とは

$
0
0

長良川の川漁師、大橋さんが使う不思議な道具。それは冬眠するうなぎを傷つけずに引っ掛ける道具だった。昔は冬に行ううなぎ漁は年間を通じた川漁の中でも,良いお金になったという。その冬眠場所「うなぎの寝床」はいまは河川改修で無くなってしまった。 うなぎが減少している原因には、越冬場所が無くなっていることも大きいのではないか?

 

長良川の下流域、サツキマスの漁は川掃除から始まる。川漁師の大橋兄弟は3月下旬ともなると、風の無い日を選んで川に出る。サツキマス漁はトロ流しという独特の刺し網で行う。網を流すのには、河床にゴミが無いことが大切だ。上流から流れて、大橋さんの漁場に溜まるゴミの量は、毎年二トントラックほどにもなる。

 大橋さんが奇妙な道具を手にしている。金属の平たい棒が長刀の様に曲がっているが、刃があるわけではなく、先端は外側に反り、細い溝になっている。

「昔は、冬になると、これでうなぎをとりよった」

その道具は鋼でできていて、以前、近所の鍛冶屋さんが作った。力を加えてもその溝が折れることは無いという。

 2015年夏、伝統漁業についての企画展示が、埼玉県立川の博物館と栃木県立博物館で同時期に開催された。

 目に付いたのは「うなぎかき」という冬眠するうなぎを捕る道具だった。荒川(埼玉県)では「ウナギカキ鎌」。栃木県内、思川、渡良瀬川などで「ウナギヤス」という道具を使ったという。共通するのは、先端が櫛のような突起になっていることだ。その突起でうなぎを引っ掛ける。

 長良川に戻って大橋亮一さんに「うなぎかき」の話をした。私は、先が尖っていては捕ったうなぎに傷がつく。長良川の道具はうなぎを傷つけない優れた道具だという感想を述べた。大橋さんは、それもあるが、漁法が違うと言った。

「ここいらでは、漁は二人でした。一人が船の脇にカギ棒をもって固定する。もう一人が陸から、船ごと綱で曳いた。うなぎはひととこに、何匹かいたから、まとめて二,三本は捕れた」

 かっての、長良川とその支流は、うなぎの冬眠する「うなぎの寝床」が至る所にあったという。うなぎの川でもあったのだ。

あの道具、正しくはなんと呼ぶのだろう。「うなぎ掻き。いまはゴミ掻き」。大橋さんは言った。

(魚類生態写真家)

第49回 京の”鷺しらず” 魯山人の愛でた小魚とはなに?

$
0
0

魯山人が一番といったのはごりの茶漬けだったのだが、それ以外にも京 鴨川の淡水魚として目で炊いた小魚があった。それを 食べに行った話。魚はアユばかりでは無いというお話しの一部です。

 


〇 京の鷺知らず

『ついでに茶漬けとは別な話であるが、京都には「鷺知らず」という美味い小ざかながある。』美食家として知られる北大路魯山人が、茶漬けの王者として紹介した一文「京都のごりの茶漬け」の最後の一行だ。

 ごりはハゼの仲間の淡水魚。カワヨシノボリという魚を指している。ところが、魯山人全集121編のどこにも、その小魚について書いてはいない。魯山人は料理について、精緻に記述をする例が多いのだが、妙な終わりかただ。

 「鷺知らず」は3センチ以下のオイカワという淡水魚。明治の頃には、鉄道唱歌に京都名物として唄われ、鴨川などには、漁師が10名ほどいたという。京都市では京の食文化を見直し、身近な川の環境にも目を向けてもらおうと「鷺知らず」を地域ブランドとして活用しようとしている。市は2014年より賀茂川漁協に依頼して生息場所や漁獲量の調査を始めた。

 「鷺知らず」を食べに、冬の京都に行った。四条河原町から高瀬川沿いに南へ、小さな橋を渡ると湯どうふ「喜幸(きいこ)」という店がある。繁華街からほど近いが、静かな路地にあるその店は、女将さんと女性1人、カウンターの端には水槽がしつらえてあり、魚が泳いでいる。その傍らに、洗って束ねられた極細の投網が4統、下がっていた。女将の浅井貴美代さんは鴨川で唯一人、「鷺知らず」を獲る漁師でもある。

 「鷺知らず」は醤油で炊いたものを食べるという。今年の漁、小型のオイカワは十分獲れなかったそうだ。少し大きくなった魚を白焼きでいただいた。

 ぬるめに燗した日本酒が、ほのかな,小ざかなの苦みと香りを引き出した。

 オイカワは関東平野から西に広く分布している。関東ではハヤ、ヤマベなど、中部ではハエなどその地方に親しまれた名前がある。    

「鷺知らずに」ついて、魯山人は多くを書かなかった。京都のは別もの、ということかと思った。

(魚類生態写真家)

第51回 続 ウナギの寝床   ダムに脅かされる長崎。鰻塚の川

$
0
0

ニホンウナギは長崎産のウナギから命名された。ニホンウナギの「発祥の地」に伝統漁法である「鰻塚」を見に出かけた。
鰻塚のある川棚川の支流、もっとも魚類の豊かな川、石木川にはダム計画がある。ムダだダムの典型なのだ。
 ウナギの寝床は二部構成となっているので、最初の部分も添付します。

 続 ウナギの寝床

うなぎの寝床をつくってウナギをとる漁がある。石を積み、隙間に入った魚をとる石倉漁。その漁法は全国にあるが、長崎県では「鰻塚」と呼ばれ、1890年に県が編纂した「漁業誌」に記述がある。東アジアに広く分布するニホンウナギだが、学名にジャポニカとあるのは、シーボルトが長崎から持ち帰った標本による。そのニホンウナギ「発祥の地」長崎県内で唯一、河川に漁業協同組合がある川棚川(東彼杵郡川棚町)に、2015年10月、鰻塚を見に行った。

取水堰堤の下流に、直径2mほどの石を積んだ塚が9カ所。支流の石木川沿いに住む岩本宏之(72)さんの鰻塚は一番下流側。上流が良い場所だが、その年はくじに外れだそうだ。

水深は1m弱、鰻塚の外側に網を張り、外側に石を移動する。二人がかりで一時間あまり、やがて、ウナギは逃げまどい、網に掛かった。少ないとは言うものの、50cmにせまる銀色のウナギが3尾、小型のウナギが数尾とれた。 

ウナギは海で生まれる。川に遡上してから、五年から十数年の期間、川で育つ。海に下る準備を始めると、黄色がかった体色は銀色となる。その銀ウナギは,海に下り、グアム島近海まで数千キロ旅をして産卵する。

岩本さんの鰻塚には、海に下る直前の銀ウナギと川に入ってきて間もないウナギがいた。鰻塚のある汽水域が、海と川との交差点として大切な場であることがよくわかる。

国内のウナギ漁獲高は1960年代の三千トンから2015年には70トンまで減少した。その理由は諸説あるのだが、ウナギが生育する河川の変化は誰の目にも明かだ。ダム建設は生息する場を奪い、河口堰は海と川を分断した。長崎随一のウナギの川.石木川にも、ダム計画がある。

15年環境省はニホンウナギを絶滅危惧種に区分した。しかし、真に絶滅に瀕しているのは「日本の川」なのではないのか。

(魚類生態写真家)

石倉漁(いしぐらりょう)

(東彼杵郡川棚町 ひがしそのぎぐんかわたなまち)

 

 ウナギの寝床 1部





52th  川と森の生態学者  海で消えた中野繁くんのこと

$
0
0

人にはいろいろな出会いがある。バハカリフォルニアの海で消えた、川の研究者のことを書こう。

 見開きの写真を撮影した徳田幸憲さんと彼のふるさと 神岡町の”川甚”で! 2017年3月25日。

 

 〇 川と森の生態学者 中野繁へ

 岐阜県飛騨市神岡町というと、ノーベル物理学賞で知られる研究施設「スーパーカミオカンデ」のある場所。イタイイタイ病の原因となった亜鉛鉱山で栄えたこの町は、日本よりも世界で知られる河川生態学者の故郷だ。

 中野繁は一九六二年生まれ。三重大で魚類生態学を学び、大学院を修了後、地元高原川漁協の嘱託研究員として渓流魚を研究した。私が彼と会ったのはそのころだ。当時彼は、ウエットスーツを着て渓流域で潜水観察をしていたが、体の冷えないドライスーツを作りたいといって訪ねてきた。
 八〇年代、渓流に潜り、魚の行動を観察する研究者はほとんどいなかった。中野は、過去に例がない長時間の潜水観察によって「魚の並び方」を研究。大きい魚を釣るには流れのどこをねらうか、という釣り人の疑問を解明してみせた。
 北海道大の教官となった中野は、日本中から魚、鳥、昆虫など専門の異なる若手研究者を集め、 演習林内の幌内川を徹底的に調べ上げた。それは後に「中野学校」と呼ばれ る厳しく統制された研究者集団となる。
 夏の魚は森から川に落ちる昆虫を食べ、春先に川から羽化する水生昆虫は森の鳥たちの餌となる。森と川は食べ物を互いに補いあって、そこにすむ生き物たちの命のつながりを形作っている。この発見は北米でも生態学の教科書で紹介される内容だ。
 中野は、二〇〇〇年三月二十七日、メキシコ・バハカリフォルニア沖で遭難する。船が転覆し、米国研究者二名と安部琢哉、東正彦教授は遺体で収容された。中野は安部教授に自分のライフジャケットを渡し、自らは海に消えた。三十七歳。妻と三人の子を残し、新たな地、京都大に赴任した翌年のことだった。
 今年三月、日本生態学会は中野の没後十六年、その後の河川生態研究をテーマとしたシンポジウムを開いた。主宰は「中野学校」の研究者たち。河川研究の中に、彼は生きている。(魚類生態写真家)

 

 閑話休題

 中野繁くんとは徳田幸憲くんの紹介であった。彼らは三重大学の同級生で川の研究をしていた。中野たちは渓流域で潜水観察でアマゴやイワナの行動観察をしていた。徳田によると「血尿」がでるほど、身体を酷使した観察だったそうだ。そして、これでは身体が保たないとボクのところにドライスーツとはどんなモノがと聴きにやってきた。ボクは潜り始めたのが瀬戸内海(大学研究室の伊方原発調査!)だったこともあり、ドライスーツを早くから使っていた。

 中野に頼まれて、渓流観察用のドライスーツを作ることになった。彼は学生時代からウエイトトレーニングをしていたそうで、四肢も首も筋肉が盛り上げっていた。そして、腹ばいになって観察したり、大きな岩を上ったりするというので、上腕部と太ももの可動域を広くとった。そして、一人で着ることができるということが必要だっので、O式ドレスという当時、碑文谷にあった日本スキューバに頼むことにした。今はたしか、株式会社ゼロというとおもう。今は社長の早乙女さんに、空気抜きや、空気を入れる部品はいらないから、小便チャック付きで、この寸法でと頼みに言った。ボクが測定したサイズ表を見て彼が言ったのは。

「こんな身体の人間はいない。作ってもおよげないよ」だった。

それでも、頼んで作ってもらった。中野に送ると彼はこんなことことをいうのだ。

「ブーツを切り取って。足のを出して欲しい」 

ドライスーツは足から水が漏ることが多い。そこで、足の部分はブーツにして一体構造とするのが普通だった。そして日本スキューバは本来が作業用なのでその部分がガッシリしていて定評があった。早乙女さんに頼みに行くと、今度は彼が渋る。防水性に責任を持てないというのだ。

 それでも、用途を説明して、ようやくできあがったのが。手首と足首がすぼまった。だいたい。こんな形のドライスーツだった。

第53回  柳と河川法  河川法改正から20年! 環境と住民参加はどこへいったのか?

$
0
0

自治体が堤防を守るために植えたヤナギ。そのヤナギが住民に知らされることも無く切られてしまった。今年は河川法が改正されて20年となる。河川法は長良川河口堰建設を契機として改正され、治水利水一辺倒だった河川管理の目的に環境が加えられた。そして、保全改革の立案には住民参加も制度として盛り込まれた、はずだった。形骸化する改正河川法を憂いて書きました。



ヤナギと河川法

みなで土地を出し合い、堤防の建設を要望した。未遂に終わったそうだが、昭和天皇の鵜飼ご観覧の際、堤防建設を直訴しようとする動きもあったという。岐阜市中川原は、長良川の右岸、鵜飼大橋の上流にある。   

ようやく、堤防ができ、高水敷の水際にはヤナギが茂った。ところが、今年の3月、国土交通省はこのヤナギを切り倒してしまった。

「あのヤナギは、自治会が中心になって植えたものです。畑で苗木を作り、三百数十本を水際に植え、守ってきたのですが、我々の知らない間に伐採がはじまりました」

中川原に住む酒井寛(72)さんは、驚いて国土交通省の長良川第一出張所に出向いた。出張所長の説明は、流れの妨げとなるから樹木を除去した。漁協には連絡したが、地権者ではない自治会には連絡しなかった。という内容だった。

残念だったのは国土交通省の担当者間で、今までの経緯が伝えられてこなかったことだ、と酒井さん。

1999年、大水で長良川は流路を変え、中川原の堤防前の護岸がえぐられた。その時、建設省時代に植えられたヤナギも蛇籠とともに流失した。人々は、地区を守ろうと、国土交通省の復旧工事に合わせて、2002年にヤナギを植えた。

ヤナギは元の場所で大きく育った。2014年8月、長良川は増水し、下流では避難勧告がでるほどの水量だったが、激流はヤナギで阻まれ、中川原の堤防際の流れは静かだったという。

1997年、河川法が改正された。治水と利水という川の役割に、環境が加えられた。第一条に「河川環境の整備と保全」が明記され、整備計画を立てるには、住民の意見も反映するなどの手続きも定められた。

法改正は、長良川河口堰問題など、各地で起こった自然保護運動が一つのきっかけとなったとも言われる。改正から二十年を経て、川と人との係わりが、改めて問われているのだと思った。

(魚類生態写真家)

参考資料

この記事を書くにあたって、以下の広報を参考に取材いたしました。ご提供下さった。岐阜市中川原の酒井寛さんに感謝申し上げます。

 

第54回 消える大砂丘 日本三大砂丘の一つ中田島砂丘が防潮堤建設で消えようとしている。

$
0
0

中田島砂丘が津波対策の防潮堤建設で消えようとしている。建設場所は砂丘の中央、陸側に寄せれば現状に近く残せた可能性がある。しかし、民有地があるという理由でその工法は選択されなかった。しかし、この原稿を書き終えた後、地元の方の確認で、民有地はすでに所有権が放棄されている可能性が浮かんできた。行政は本当に最善の計画を策定したのか? 消える大砂丘に寄せて書いた。

中央部の掘り込まれた部分からを基礎に、高さ13mの防潮堤がそびえることになる。

 

消える大砂丘

 五月の三連休、各地で様々な催し事が開かれる。中部地方では昨年167万人が訪れた浜松まつりが第一だろう。まつりの見ものは「凧揚げ合戦」。凧揚げの会場に隣接する中田島砂丘は日本三大砂丘として知られているが、その大砂丘が無くなろうとしている。

 23日、浜松市内で開かれた「中田島砂丘を未来へつなげるシンポジウム」に参加した。現在、遠州灘の海岸線には17.5キロにおよぶ防波堤の建設が進められている。シンポは中田島砂丘の未来を知ろうと地元有志が企画したものだ。

 講演をされた大阪大学大学院の青木伸一教授は、海岸工学が専門で十数年にわたり遠州灘の砂の動きを研究されてきた。青木教授によると、中田島の砂丘は、天竜川が運んだ砂を風が海岸線に吹き上げて造った。西から東に砂が移動し、循環することで砂丘は維持されている。会場からの質問に対して「防波堤が砂丘を分断する場所に完成すると、移動する砂が激減して、砂丘としての姿は残らないだろう」と答えた。

 海岸線の自然環境が専門で、全国の状況に詳しく、東北地方の防潮堤も調査してきた九州大学大学院の清野聡子准教授は、「もっと岸に近い部分に防波堤を作れば砂丘は残せるので無いか」という。当初、中田島砂丘の防波堤は、海側、中央、陸側という三つの案が検討されていた。中央では無く陸側に防波堤を作れなかったかという指摘だ。民有地があることで陸側案は採用されなかった。

 民有地があり、地権者の人数が多く調整に手間取るということが、現在の場所になった理由のようだ。民間企業からの300億円という寄附で始まった防波堤建設は、通常の公共工事とは異なった手法、スピードで進められている。

 まつりの日、家族で海辺に繰り出そう。潮の香を愉しみ、消えてゆくその姿を脳裏に刻もう。次の世代の子らは、あの茫漠とした砂の連なる大砂丘を、観ることは無いのだから。

 

(魚類生態写真家)

 

第55回 ダムと砂丘  あんなに広大だった砂丘が消えていく、砂丘になるはずだった砂はダムに溜まっている。

$
0
0

日本三大砂丘と謳われた中田島砂丘は消えつつある。防潮堤の建設がそのとどめを刺すことになるのだが、元々の要因は天竜川のダム建設だ。最大の佐久間ダムの堆砂問題はまだ解決していない。

 

 幾重にも連なった砂の丘、砂の海、というのが私の記憶の中の中田

島砂丘(浜松市)だった。四十数年を経て、防潮堤工事が進む砂丘を前にし、その変容ぶりに驚いた。
 中田島砂丘は天竜川が造った。川は山からの土砂を海に運び、その砂は風によって陸地に吹き寄せられ砂の山となった。地元中田島町に四十年来住み「海岸浸食災害を考える会」を主宰する長谷川武さん(62)は、変化は一九九〇年代からだという。「年々、浜が消える。一昨年の台風時には凧(たこ)揚げ会場の松林まで波しぶきがかかった」
 二一(大正十)年生まれ、浜松市在住の写真家、加藤マサヨシさんは九〇年以来、中田島砂丘の写真集を六冊出版。中田島砂丘の姿を後世に伝えたいと、写真集を長谷川さんに託した。
 木曽、赤石山脈に挟まれた急峻(きゅうしゅん)な谷、年間を通じて豊かな水量。水力発電に適した天竜川に建設されたダム群は砂をとどめて、海岸線の姿を変えた。流域最大の佐久間ダムは五六年に完成した。我が国最初となる巨大ダム建設は、近代的な工法と建設機材をダム先進国米国から調達して、わずか三年で完成された。戦後最大の大規模プロジェクトが、後の高度経済成長を支えたことは間違いない。
 我が国の土木事業における金字塔とたたえられる佐久間ダムだが、これほど大規模な海岸浸食を起こすことを、建設当時想定していたのだろうか。完成から六十一年、ダム湖の堆砂は進んでいる。二〇〇三年時点で総貯水容量の43%、一・三億立方㍍の砂がたまる。
 〇四年、佐久間ダム再開発事業が着手し、ダム湖にたまった砂を下流に運ぶ方法の検討も進められている。しかし、莫大(ばくだい)な工事予算など、障害は多く、具体策はきまっていない。
 佐久間ダムにたまる大量の砂は、中田島砂丘になるべき砂だった。消える砂丘は、土砂を運び国土を造るという、川の大切な力を教えることになった。(魚類生態写真家)

      加藤マサヨシさん撮影 写真集「風」(2000)より 転載

第56回 川漁師のワザ  長良川で70年、サツキマス漁にかける兄弟。

$
0
0

長良川にはサツキマスという魚を獲る漁師兄弟がいる。三十年前このご兄弟にであったことがボクが長良川に通うことになったきっかけだった。ボクは二人の獲るサツキマスによって長良川の変化そのものを記録して、その現認者になろうと思った。その現認の記録も、いよいよ終わりに近づいているのではないのか?その想いを強くしながら、淡々とふたりの神業について書いた。

「どうね、みな元気で泳いどったかね」

 大橋亮一さん(82)、修さん(79)の兄弟は長良川の川漁師。五月初めから二人がとったサツキマスが、岐阜県各務原市の淡水魚園水族館「アクア・トトぎふ」で展示されている。その水槽をみてきたと話すと、亮一さんはそう言った。

 国内に水族館は百余りあるというが、サツキマスを展示するのはここだけだ。サツキマスは秋の終わりに海に下る。伊勢湾で冬を過ごして、サツキの花が咲く頃に川に戻ることから、その名が付けられた。

 海から戻った銀色の魚体は弱い。塩分に耐えるためのうろこは剝がれやすく、傷もつきやすい。魚体に傷が付くと、そこから、水生菌が繁殖して死んでしまう。網の傷が付かないように、サツキマスをとる。それができるのは大橋さんたちだけだ。

 サツキマス漁は「トロ流し」という独特の漁。川の中で、流れの緩やかな深みをトロという,そこに網を流す。漁に使う網は二枚重なる。下流側の目の粗い網は浮きと重りでピンと張られている。上流には目の細かな、大きな網がゆったりと重なり、下流に開いた大きな袋のような形をしている。網の幅は百㍍、網の端に「えべっさま」と呼ぶ浮きをつけ、川を横断して張り渡し、舟と並ぶように一㌔ほどを流れ下る。

 上ってきたサツキマスは、上流側の網で行く手を阻まれ、鼻先を網につけて、ツンツンとするのだそうだ。その状態で網をたぐり、舟を寄せ、マスを手網ですくい上げる。熟達の技だ。

 「なんとしても入れたかった」。今年は終盤まで掛かって十匹のサツキマスをアクア・トトに納めたという。長良川河口堰(ぜき)ができるまでは、一日で捕れたサツキマスの数が、今年の漁期のすべてだった。

 サツキマスを見ることがあったら思ってほしい。その完璧な姿は、気力と体力を注いだ川漁師のワザのたまものであることを。(魚類生態写真家)

 

Viewing all 338 articles
Browse latest View live




Latest Images